PCコピペで「大学レベルの論文」に価値が無くなった時代!デジタル化で文章コピーが当たり前!

  • 17 September 2012
  • のぶやん

知ってました?中国のインターネット上では、引用するURLを文章の最後に付ければ、「文章をそのままコピー&ペースト」が認められています。中国などの個人ブログ上においても、ほとんどコピペだけで済ましている個人が大半です。

日本だと、新聞社の書いた内容をコピーしたりすると、最後にURLを付けたとしても、著作権違反で訴えられる危険性があります。しかし、中国の場合には、メディアすら同じようにコピペ文章しているので、お互いに何も言わないのです。中国は、コピーの文化は世界で最も発達している国であり、それは既に「当たり前のこと」として国民に浸透しています。

日本のメディアは脚色が激しい

日本のメディアは事実と乖離

続いてメディアの質についてですが、日本人からすれば意外に思えるかもしれませんが、日本のメディアと中国のメディアを比較した場合には、日本の方が脚色が多くて事実と乖離しています。中国のメディアの客観性は日本のメディアよりも高くなっており、そして中国メディアの方が報道の多様性があり、事実に近い内容を報道しています。

日本人は「中国は共産主義経済だからメディア規制されている」と思い込んでいますが、メディアの多様性が低い(言い換えれば新規参入が出来ないほど規制が激しい)のはむしろ日本の方であるというのが真実です。僅か3社(読売、朝日、毎日)が市場を独占している状況で、報道に異常なバイアスがかかってきます。

日本人はその事に気がついておらず、その事が日本を一体化させているというか、暴動などが起きない平和な国となっている要因とも言えるでしょう。一方で、こうしたバイアス自体がかかり続けていくと、日本の最も深刻な問題である少子高齢化であったり、国債の発行残高の問題などがどこまでも放置し続けられていくという事態を招き、最終的にどうなるかは歴史が証明していく事になるでしょう。

コピペが当たり前の大学論文

論文に価値が低い

日本の論文自体は、中国の論文より「マシ」ではありますが、日本も中国も学生論文はほとんど価値がありません。特に中国の場合には、100%に近く一字一句同じ文章を使っても良いので、大学の論文は1円の価値を生み出すものでもありません。30分ぐらいで終わる作業です。苦労する事は何もなく、多くの学生が最も苦労するのは、いかに文章を印刷した時の「表紙の見栄えを良くするか」という事だったりします。

中国の学生の多くは、単に適当に論文をどっかから探し出してきて、それを「100%同じ文章で」ペタペタ貼り付けて「引用しました」と言って最後に引用元を付けるだけです。それで大学の論文程度であれば通ってしまうんですね。学士論文ぐらいであれば、コピペを書き換えた程度で、実際に慣れた人なら数時間で書きあがります。日本は、中国より程度はマシですが、学士論文に使い物になる論文などほとんどありません。

クリエイティブである必要性ゼロ

中国の場合には、大学の先生ですら、かなりの部分をコピーに依存している国なので、コピーは罪でも何でもないんです。論文というよりは、文章の「まとめ文」と考えた方が良いでしょう。それだけ、試験の成績だけがよほど重視され、論文が軽視されます。クリエイティブである必要性は何もない国なのです。そして、そうした誰もクリエイティブな行動をとらないコピー社会を人々は「社会主義計画経済」と名づけました。

時代はいずれ新しいものを求める

いかに計画を立てようとも、計画というのは従来のものを基準にして計画されるので、時代が進むにつれて少しずつ計画と実態がずれていくのです。そして社会はやがて世界の潮流から遅れていって、いずれは崩壊を招くのでしょう。中国において5ヵ年計画で経済の全体像が決められますが、こうした過去の手法が通用しない時代に入ってきているのです。例えば、欧州危機などの状況で、中国経済が大きく揺らごうとしています。

言い換えれば、大卒の価値が下がる

大卒の論文は数時間あれば書ける

論文を図書館で調査して、それを基にして教授と話し合って論文を書き上げるという時代は、既に90年代には終了していたと言えるでしょう。現在の大学生の論文の書き方と言えば、単にウェブサイトを検索して、それをダウンロードして適当にコピペして、それを貼り付けて加工する作業となりました。パソコンを使うと書き換えるのが非常に簡単なので、慣れたら数十分の作業となりました。

多くの作業工程は誰でも出来る

大学の論文がコツを掴めば誰でも書けるように、ほとんどの企業の作業というのはマニュアル化されてきており、ある程度の訓練を積めば誰でも出来る状況になってきています。つまり、大学を卒業した人材であれ、高校を卒業した人材であれ、企業から見ると技術的な部分がほとんど変わらなくなってきてしまったのです。大学で何を勉強したのかと言えば、人付きあいであったり、社会でのアルバイト経験だったりする訳ですが、それで企業で通用するほど高いレベルに持ち込めるのでしょうか。

だけど大学の学費は高い

日本の大学では単位制を採用しているので、3年生までに単位を取得していれば、4年生は論文だけという人もいるでしょう。4年生は論文だけだというのに、学費は国立50万円-私立100万円ほどもします。以前であれば、大学は職場で言うオフィスのような機能があり、勉強する場所としてきちんと機能していました。しかし、現在はインターネットがあるので、大学に行かずに論文を書いたり、勉強する事が可能です。

大学としては、大学に来なくても良い学習方法をもっと発展させるべきで、実際に米国などでは無料授業などがインターネットで盛んに公開されはじめてきています。大学という場所は、既に勉強する場所ではなくなっており、1つの資格を取得して社会的地位を得るという目的で行く、一種の身分制度みたいなものになりつつあると考えた方が良いでしょう。

資本主義計画経済

デジタルを否定する人々

本来の国際競争で生き残ろうと思えば、コンピューターを率先して勉強していくべきだという事に異論を唱える人はいないでしょう。せめて簡単なプログラミングぐらいは出来ないといけませんが、高校の教員、大学の教員にプログラミングを出来る人材が揃っていません。英語の先生は沢山いますけど、彼らの英語能力は何故か外国人が驚くほど低いのです。英語の先生が教えるよりも、プロによるビデオ学習の方が良いに決まっていますが、何故かそうならずに多くの人が塾に通って巨額の支出をしています。

デジタルに対応できない世代格差

個人のパソコンが発達したのは、2000年を過ぎてブロードバンドが普及してからの事です。つまり、大学でパソコンを使い始めた世代と、それ以前の世代のパソコンに関する使いこなし方の格差が非常に大きくなっています。仕事がIT関係であったり、良くパソコンを使う仕事は別として、仕事で使わない人はパソコンの扱い方が不得意です。

特に経営者が60代、70代などであれば、コンピューターについて非常に疎い経営者が多く、パソコン用語を言ってもさっぱり分からず、ソーシャルネットワークを使ったりする事もなく、現在のマーケティングについて理解しなくても工場経営であったり、人脈を作る事が大事と大昔の考え方をしている経営者が多いのは、困ったものです。

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